人首村
岩手手県奥州市江刺区米里は、かつては人首村と呼ばれた。名称が代わった今でも町並みは人首町、町の横を流れる川は人首川と呼ばれ人首の名が残っている。

人首村と聞いて横溝正史の世界を想像した人も織られるだろう。名付けの理由におどろおどろしい過去を期待されても困るが、人の首と大いに関係あるのは事実である。
人首町(写真上)と町裏を流れる人首川(写真下)
その昔桓武天皇は、蝦夷の国であるこの地域(奥六郡)を制圧しようとした。坂上田村麻呂が征夷大将軍としてやって来たとき、抵抗したのが蝦夷の族長「悪路王」(アテルイ)であった。悪路王は勇敢に戦い朝廷軍に多大な損害を与えた。しかし、延暦20年(801)に平泉の達谷の巌谷で捕らえられ処刑された。その子人首丸はこの地(人首村)に逃れ大森山に隠れた。やがては朝廷軍の知るところとなり、激しく抵抗したが大同2年(807)に捕らえられ斬首された。御年15歳。美少年であったという。
田村麻呂は大森山に小さな神社を造って彼を祀った。口伝では切られた首が空を飛び、山の下を流れる川に落ちて水を真っ赤に染めたという。それ以来この地は人首村、その川は人首川と呼ばれるようになった。今から千二百年前の話である。ただし人首と書いて「ひとかべ」と読む。
人首村位置図(赤が人首町、緑が大森山)
私はこの地に親戚がいて、小学校の殆どの夏休み、冬休みをここでで過ごしていた。起伏に富み奥深い北上高地の外れ、山ひだに抱かれるように集落が存在する。集落は百年以上も前に造られた屋根の大きい直家で、典型的な山村景観を見せていた。今でもそれは変わりないが、子ども心に美しいと感じていた。
また、沢が多く水も豊富である。沢が集まって少し大きな沢となり、やがて川に注いでいく。それがなんとなく不思議だった。もちろん川の恵みは多く、山間にはイワナやヤマメ、ウグイ、オイカワ、カジカなどがうようよいた。私は親戚の子に箱眼鏡とヤスで魚の採り方を教わった。
この村は私の原風景を育んでくれたところなのである。
その一方で非常に不思議なところでもある。山村でありながら都会の匂いがするのである。このことも人首村の魅力でもあった。
人首の町は東北新幹線水沢江刺駅から約20km北東に位置する。周囲を山に囲まれた小さな町である。三陸と内陸を結ぶ宿場町としての賑わいは既になく、寂しさを誘う。しかし、町を歩くと木造ではあるが大正から昭和にかけて建てられた洋風の建物が残っていたり、城塞の下には当時の家老の家が残っていて往時を偲ばせてくれる。

左:郵便局跡、右:旧家老宅
人首の町を過ぎて県道を東に向かうと山塊にぶつかる。道はそこを蛇行しながら上っていく。トンネルを二つくぐると峠に出る。そこが宮澤賢治ゆかりの種山高原である。高原の北西に大森山が見える。
宮澤賢治は大正6年(1917)8月に、江刺郡役所の要請で江刺を訪れ地質調査を行っている。その時の感想を「五輪峠」や「人首町」という作品に残している。昭和37年には種山高原に賢治文学碑が建立されるが、草野心平や串田孫一がここを訪れ詩や文章に感動を残している。また、柳田民俗学に大きな貢献をした佐々木喜善も遠野からこの地に入り、人首町の感想を作品に残している。これら多くの文学者もその不思議な魅力を感じたようだ。余談だが、この地は詩人佐伯郁郎の誕生地でもある。
人首の持つ不思議な魅力の形成には、その歴史が大きく影響しているのだろう。この地は慶長11年(1606)には伊達藩の領地となり、南部藩との藩境として重要な位置にあった。そのため伊達一門である沼辺氏が専封さ警護にあたった。また、この地は内陸と沿岸を結ぶ要衝であり、宿場町として栄えた。

宝暦13年(1763)の人首村風土記によれば、人首村の人口は2,738人と記されている。当時から江刺郡の中心地は片岡村(今の岩谷堂)で、やはり伊達一門の岩城氏が城塞を築き町を形成していた。その片岡村の人口が2,761人であることを見れば、人首村の繁栄ぶりが知れる。
旅館作りの建物が今でも多く残っている
この地は地質学的にもおもしろい所である。金や銅などを産出する鉱山がかつてはあった。特に金山は多く、大野・小屋沢・古歌葉(こがよう)の金山は平泉の藤原時代に発見採掘されたもので近世まで産出していた。特に古歌葉金山は藤原泰衡の時代に奉行所が置かれるほどだったという。古歌葉金山は古歌葉集落の入口近くにあり、それを知らせる標柱が立っている。古歌葉集落は種山高原の直下の小さな盆地にあり、約十数戸がひっそりと軒を並べている。
古歌葉集落
江戸時代鉱山は公政不入の地とされ、一種の治外法権地域であった。そのため多くの切支丹が流れ込み鉱山で働いていた。伊達政宗は当初切支丹を容認していたし、その家来である後藤寿庵は水沢で布教活動を行っていたらしい。一関や前沢など岩手県南に切支丹は多かった。その後禁止令が出ると、信者は隠れ場所として鉱山を選んだ。また、宣教師達も鉱山を巡って布教活動を行ったようである。
明治になり禁止令が撤廃されたが、この地にはロシア正教とカトリックの教会がそれぞれ建設されることになる。小さな町の中にキリスト系教会が二つあったのである。宣教師は盛岡、水沢、岩谷堂を経てこの地に入り、ここを宿所として遠野や沿岸地方へと布教を行った。

ロシヤ正教は明治12年からこの地で布教が行われ、23年には教会堂が建設された。当時の信者は300名を超えたという。その後教会堂は二度も火事に遭い、現在は残っていない。明治40年のロシヤ革命以後急速に衰えて、信者も大正末期には120余となり、現在は14名といわれている。
カトリックは明治17年に教会を建てている。38年頃フランス製の鐘を設置している(アンジェラスの鐘と呼ばれた)。以後第二次大戦後までこの鐘の音が山間に響き渡っていたことになる。
ロシヤ正教教会堂の写真
この地は蝦夷の文化を下地にしながら、平泉文化や宿場町に泊まる人々、鉱山で働く人々、キリスト教信者など多くの人々と彼らの持つ文化を受け入れてきたのだろう。山村なのに都会の匂いがするような不思議な感覚は、このような歴史によって生まれ、育まれてきたのではないかと想像する。
現在もこの地は都会からの移住者を多く受け入れている。一つの集落の半分近くが移住者だという所もある。その人達は農業を志しているのだが、都会では建築士であったり、商社マンであったり多様な経歴を持つ。今度はこの人達によってまた新しい人首の文化が生まれてくるのだろう。そして不思議な魅力はいつまでも消えることはないだろう。
戻る