人間性の回復について  〜「農」空間の体系利用〜


1 はじめに

 公園緑地に求められる役割は、巨視的に見れば都市生活者のレクリエーションの場の提供であり、もう一つは
都市環境の改善にあったといえる。そして、公園緑地はこの二つの役割の質を高めながら発達してきたのである。
現在の公園緑地体系を具体的に見れば、基幹公園・大規模公園・各種緑地の他に、運動や文化を考慮したグリ
ーンフィットネスパーク・カルチャーパーク・クラフトパークなどの公園整備が進められている。しかし、この施策が
人間性回復などの今日的な問題を反映させた結果であるとしても、本来の人間性回復との間にずれがあるよう
に思える。そこで、人間性に対する私見を述べながら、その回復の一つの考えを提案したいと思うのである。
 現代造園の流れは、自然との関係を含めた人間の生活環境を重視している。13)今後もこの認識に変わりない
と思われるので、まずこの立場に立って、現在の生活を眺めることから話を進めたい。


2 現代生活の裏側

(1)生活の歪み
 我々の生活は健康で文化的でなければならないのだが、文化が高度になればなるほど生活の歯車が噛み合
わない現象が見られる。
 人間と人間の間に機会が存在するようになると、人間関係の省略化が進み、細やかな人間的情緒は消え失せ
てしまった。赤ちゃんは二つの黒い物に目を合わせる本能があるという。これは母親の目を見ろという準備された
行動で、母親が見つめ返し話しかけることによって、赤ちゃんの情緒は触発されていくのである。ところがテレビ
を見ながら授乳すると、赤ちゃんは母親の鼻の穴を見ることになり、人間としての情緒は触発されないでしまうの
である。
 かつての日本人は手先が器用だといわれた。これは生活の中で手を使う習慣が多く、しつけや遊びを通して訓
練され賜物だろう。ところがリンゴの皮をむけない幼稚園の先生がいたり、卵を割れない教師がいたりする。18)
んな例は枚挙にいとまがない。一番身近なのは箸の持ち方である。昔は5歳で伝統的な持ち方が出来たという
が、今では20代でもメチャクチャだという。18)このように心だけでなく、生活の底辺でも退行化が進んでいるので
ある。
 退行化はそれだけではない。食生活や運動不足など、生活全般の乱れが肉体の退行化を引き起こしている。
運動不足は肥満や成人病を誘発し、柔らかい食べ物があごや歯ぐきの力を弱めているのである。斎藤ら3)の調
査では、現代人のあごの力は弥生時代の六分の一でしかなかったという。このため、あくびをしただけであごの
関節炎になったり、歯並びを悪化させている。また、現代の子どもは偏食などからフ貧血気味だという。この子ど
も達もやがては結婚し女性は出産を迎えるわけだが、貧血の母親は精薄児を生むのである。こうなると国の存
亡にかかわる問題といえよう。
 このような現象は、家庭の崩壊と関係があろう。時実は家庭の役割として次の4点を上げている。14)
 @睡眠・休息など「いきている」という命の保障が得られる場。
 A食事や性の営みなど「たくましく」生きるための本能の欲求が得られる場。
 B育児・教育など「うまく」「よく」生きるための適応行動と創造行為の場。
 C心のうさをはらし、痛手を癒すなど欲求不満をはらす場。
 しかし、、生活の個人化が過程を支配しつつあり、家族としてのまとまりをなくしているのが現実である。また、
最近はやりのいじめなどは、育児の失敗から来る根の深いものだという指摘がある。10)
 もう一つ、家庭の機能が家庭外に出たこと8)も崩壊の原因だろう。冠婚葬祭をはじめ出産・育児・教育などそ
の殆どが都市サービス化している。食事は外食産業で、睡眠はホテルで、性の営みはセックス産業で、出産は
試験管で代用出来るとするなら、時実が指摘した家庭はその拠り所を失い、存在しなくなるのも時間の問題と
いえるだろう。

(2)文化のもたらしたもの
 文化を図の文化と地の文化に分ける考え方がある。12)図の文化とは音楽や絵画など芸術的なものをいい、地
の文化とは自然を含めた人間の生活をいう。したがって児の文化には、箸の持ち方や干物結び方など人間生活
の基本が含まれているといえよう。
 文化は時代と共に進化してきたが、それには必ず生活の変化が伴っていたはずである。つまり、文化の進化の
主流は地の文化ではなかっただろうか。徒歩の時代からスペースシャトルの時代までには、生活の行動・範囲・
価値観などが様々な形で変遷してきたはずである。我々はこの変遷を進歩だと認識し肯定してきた。でも、文化
の進歩を得ることだとすれば、逆に考えれば捨てることであって、文化が進化するたびに捨てられてきたのは地
の文化の持つ人間性ではなかったか。石田2)は次のようにいう。
 「機会が進歩し、仕事の効率がよくなると、ひとはまるで自分が進歩したかのように思いこむ。だが実は、自分を
  他者にゆだねているしかないのだ。(中略)自己はむしろ『隠れたる他者』によって侵襲され、損なわれている
  のだ。」
 これは当然のことではなかったか。「楽をしたい」という安楽志向本能が求めたのは、心理学でいう現実原則か
らの解放だったからである。現実原則とは人間が生きるために従わなければならないことで、歩く・眠る・食べる
など人間性そのものなのである。したがって、文化が進歩すればするほど、生活は人間性とはほど遠いものとな
ってしまうのである。
 別な見方をすれば、文化の進化は地の文化の図の文化化活動といえなくもない。我々は、生活を格好良さな
どというある種の美意識で眺めてはいないだろうか。四畳半に暮らしていても外では大邸宅の暮らしを装うよう
にである。図の文化の殆どが地の文化から昇華したものであるように、生活の文化を図の文化へ近づけようと
努力しているのである。そこには優劣関係が存在し、等身大の生活を否定しようという動きを感じるのである。

3 新しい空間体系の必要性
 
 現況の公園緑地が人間性回復にもたらす効果は、心身の健康・体力・上層の向上、非行防止や快適性にある
とされ、主に自然でもレクリエーションを中心に対策がとられてきた。これは自然破壊・公害の発生・都市環境の
悪化などからくる生活のすづらさ、不快さへの対応であったといえるだろう。
 しかし、身の回りに自然が配置されたからといって、生活そのものが現代文化にすがっている以上あまり意味
のないものではないか。現代文化が人間性を否定する元凶であり、それは自然環境という外向的生活でなく、自
己という内向的生活へ強く影響しているからである。こう考えると、人間性の回復には現在の公園体系とは違っ
た思い切った発想の転換が必要だと思える。それを述べる前に、もう少し人間性というものを考察してみたい。
 人類が人間性を持つに至るまでには、何らかの前提条件があったと思われる。それは多分、自然界の進化と
大いに関係があっただろう。考えられることは次の二点である。
 まず一つは、人間はただ単に動物界の頂点に立っているわけでなく、進化系統の過去の生物たち(宗族)の影
響を強く受けていることである。三木17)によれば、我々が日常の大半を無意識のうちに過ごしているのは、体内
の平衡調節のおかげであって、人間の意識を超えたこのような働きは生命記憶と呼ばれたいる。これは人間の
細胞全てに内在し、生命誕生30億年の歴史を背負っているのである。まさに自然界への畏敬を感じずにはおれ
ない。
 もう一つは、人類の心身は採集狩猟時代に完成されたということである。今野11)によれば、現代人の人類とし
ての基本的な特徴(社会・文化・行動など)は、採集狩猟民と何等変化がないという。
 したがって我々は、地球的な規模からと採集狩猟時代の生活及び自然環境にいまだ強く影響されていると思
われる。これと石田2)の説を参考に、あらためて人間性を考えてみると、次の5項目にまとめることができる。
 @生命のリズム
  人間は生と死や昼働き夜寝るように、一定周期で生活している。これは自然の持つリズムの影響である。
  具体的には水・空気・などの自然や宇宙を意味しよう。
 A生命のエネルギー
  自己の根源的なものであり、心身を維持するための食べる行為と関連する。具体的には食生活あるいは食料
  を得る行為(農耕・牧畜)などを意味しよう。
 B歩くこと
  直立二足歩行が人類の出発点であり、肉体の構造も歩行に都合良くできている。具体的には運動・スポー
  ツ・肉体労働などを意味しよう。
 C手を使うこと
  道具を使うのも人類の特徴であるが、それを作るのも手である。手を使うことは、考えることに繋がっている。
  具体的には遊び・労働・文化などを意味しよう。
 D言葉
  人間の世界は言葉によって秩序立てられ、築かれているという。
  具体的には家庭やコミュニティなどを意味しよう。
 人間性をこのように捉えてその回復を考えてみると、レクリエーション中心の体系とは別に、人間性回復のため
の空間体系が必要ではないかと思える。
 かつての人間は、自然へ積極的に働きかけることにより、食料を得、道具を考え、家庭を維持してきた。その結
果自然への畏敬や人生の喜び悲しみを経験しながら自分の生き方を学んできたのである。ところが公園内容を
見てもわかるように自然への働きかけという意味では消極的である。自然を見る、感じる体験も重要だがもっと
積極的な体験が求められてはいないだろうか。
 現代人に最も欠けているのは、自然の中で暮らしながら自然へ働きかけ、自分の生き方を学ぶことなのだが今
の公園緑地にはこのような広い意味での人間教育の場(人間性回復の場)がないのである。
 では、人間性回復の空間体系とは何を軸として考えればいいのだろうか。先に述べた五つの項目を満足させる
生活が、最良の生活いえるだろう。だからといって百万年前の生活に戻るわけにはいかない。つまるところ、この
条件を満たすのは「農」の生活しかないのである。
 採集狩猟に適した身体なのに、農耕が良いというのはおかしいと思われるかもしれない。実は、人間には摘要
能力があり、人間性の喪失が産業革命以後に始まった11)ことを考えれば、我々にとって農耕はその適応範囲内
にある生活だといえる。
 近年様々な方面から、農業あるいは農村に対する熱い視線を感じることが多い。それは都会人の農村逃避と
いう一種の郷愁であったり、農村に快適性を求めた空間論であったりする。しかし我々が今切実に求めなければ
ならないのは、自分の身体を使った「農」の生活であり、その実体験を通しての人間性回復である。なぜなら、江
5)が進化上から最も重要な問題と指摘しているように、現代生活は人類としての適応能力の限界に来ている
からである。ボタン一つ押せば何でも出来る時代に、自分の身体を使う「農」の体験は苦痛であり不便のようにみ
える。しかし、それは不便ではあるが苦痛ではない。むしろ楽しい不便、感動を与えてくれる不便なのである。
「農」の体験は自分の本当の姿を掴ませてくれるからである。 このような考えから、農業あるいは農村の生活を
自己に体験させてくれる新しい空間体系が望まれるのである。そしてレクリエーション体系と人間性回復の体系
が補完し合ってこそ、21世紀に向けた公園体系の確立がなされると思うのである。


4 「農」空間の体系化

 「農」を都市生活に取り入れるためにはいろんな方法があろう。私自身はまだ手探りの段階であるのだが、一つ
の考えを示したいと思う。図は以前示したものを6)加筆修正したのである。ここでいう「農」とは、農業及び農村の
体験的生活あるいはそれに近い生活を意味している。
 この考えの基本は、都市生活にいかに「農」を取り込めるかである。いわば都市(都会人)の農村(農民)化を
目指したものである。空間的に見れば、市街地内の農地や残存林等を活用する、近郊農地や自然を利用する、農
村で本格的な農業に触れるの三つの段階があろう。利用属性によりその活用内容が違ってくるだろうが、自分の
手で働くこと、「農」体験の日常性、レクリエーションと「農」の質差を体験する三点は欠いてはいけない条件である。
それでは家庭を中心にして「農」空間のあり方を簡単に述べたい。

(1)市街地内での利用空間
 「農」の第一歩は、庭の管理や家庭菜園あるいはベランダを利用した野菜等の栽培から始まるだろう。このため
には「農」を考慮した建築計画が必要だろうし、個人庭園も芸術性だけを強調せず、果樹を植えたり畑を造るなどの
配慮が必要だ。野菜作りの失敗や感動が生活を豊かにするとともに、人間性回復への歩みとなる。
 次はコモンスペースの共同管理や市民農園の利用が考えられる。特に市民農園は、土地を持たない市民への
「農」の格好な解決手段となろう。それには都市内の農地や残存林の活用は勿論であるが、宅地開発や一定規
模以上の集合住宅を建てる場合に市民農園の義務づけが欲しい。
 ここで最も期待したいのは、食生活の健全化でる。自分が作った野菜は、少なくとも見かけは悪が安全で愛情
がこもってうまいという質的な豊かさをもたらすだろう。

(2)近郊区域内の利用空間
 市街地内で体験できないことを、近郊農地を使って体験させることが可能である。
 まず動植物公園の利用である。こうれらは視覚的な体験が主であり「農」空間の意味からすれば別なものであ
る。しかし、動植物等の種類を知る意味では重要な施設である。
 都市近郊で目に付くのが観光農業である。この空間を活かすには一時的な利用ではなく通年の農作業を体験
させる方法に変換すべきである。
 また、樹林地に囲まれた谷内田が残っているとしたら、そこは農業体験公園にすべきある。都市民に農業の体
験をさせるため、田んぼの管理や牧畜、森の育成などを体験させるほか、農村景観の保全にも貢献できる。市民
の参加形態は家族単位の会員制など様々考えられるし、宿泊施設があれば団体等の農業体験合宿なども可能
であろう。立地条件としては農村景観の一断面を示すものであるため、農業的に多様な土地利用が可能な場所
である。農業生産活動を行うのであるから少なくとも一つの水系が欲しいだろう。

(3)農村区域内の利用空間
 ここでは主に実際の農家との接触を目的としている。利用の仕方には短期・長期・移住の三つが考えられる。
 短期的なものは一週間前後の体験で、長野県川上村「季節のアルバイト」15)など直接農家に泊まり込んで
農作業する方法、空いている民家をセカンドハウスとして農作業する方法、山形県朝日村の「雪下ろしツアー」
などに見られる農村生活を体験する企画に参加する方法などがあろう。
 長期的なものは農家への留学がある。個人農家へ泊まり込む、寄宿生活をしながらなど様々な方法があろう。
期間は一年程度である。
 決定的なのは移住である。これは農業をするためのものと、農業以外の仕事をするが農村に住むという二つの
方法があろう。注目に値するのは北海道仁木町のアリス・ファームである。16)彼らは農業・大工・木工・染織を志
す人々で、自分たちの等身大の生活をするために農場を設立したのである。基本的な姿勢は生活全般にわたる
自給自足とそれを基盤にした商品生産であるという。これは新しい「農」の姿といえよう。


5おわりに

 「農」体験の利用空間は現在実際にあるものをいかに使うかという考えでの発想なので、目新しいものは何も
ない。しかし、大切なのはこの空間をどのように体系づけて使わせるかというプログラムである。 これが人間性
回復空間の最も重要な問題である。 
 公園緑地をはじめとする造園学は、人間生活にはレクリエーションが必要だとして、それを拠り所にしている。
今の人間性回復もその域を出ない。しかし,我々の生活を一つ一つ見ていくとその欠陥をレクリエーションだけで
補いきれないものが出てくる。たとえば手の器用さや家庭崩壊の例に見られるようにである。だからといってこれ
を造園学の対象外だと考えることは許されないだろう。人間性回復は今後益々明確に、しかも切羽詰まった形で
叫ばれるようになるからである。造園学が人間の生活環境を考えていく学問である以上、これは避けて通られな
い問題である。
 ここまで「農」空間の体系利用の考え方を述べてきたが、これが最善だとは思っていない。市民生活への「農」
の取り入れ方はもっと違う方法もあろう。たとえばA・トフラーのいう生産=消費活動のようにである。1)これは自
分のために自分で商品やサービスを生産する活動で、極めて「農」に近い考え方といえるだろう。
 いずれにせよ「農」の利用はレクリエーションとしての農業空間のように、表面的で生活の重さを感じさせない
体験であってはあまり意味がない。「農」はあくまでも泥臭く、じっくりと体験すべきものなのである。








参考・引用文献

1)A・トフラー     第三の波   日本放送出版協会  1984
2)石田春夫     セルフ・クライシス   講談社     1985
3)岩手日報      1986・1・11
4)岩浅農也     村に生きるこどもたち    農文協   1979
5)江原昭善     進化の中の人類    講談社    1982
6)及川純一     都市の子どもの遊びと農業の役割  ULA NO.6 PP177〜187  造園家集団  1982
7)大阪市他     八幡屋公園基本設計競技作品集  大阪府公園協会  1985
8)紙野桂人     都市型社会における生活変化と都市計画  都市計画 NO.136 PP12〜17 1985
9)桐山京子     日暮里中学校の農業体験学習  農業と経済 1984・4 PP38〜45 富民協会
10)久コ重盛     母原病   教育研究社    1980
11)今野道勝他   歩行の健康学    健康観測社   1983
12)進士五十八   緑からの発想    思考社   1983
13)造園学会編   造園ハンドブック   技法堂  1978
14)時実利彦     人間であること    岩波書店  1983
15)農業共済新聞   1982・6・16,7・14
16)藤門 弘他    カントリーライフのすすめ   講談社  1984
17)三木茂夫     退治の世界   中央公論社   1983
18)八田貝公昭他  これは大変シリーズ  現代農業  1982・3・4・6・7月号  農文協


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