■まちづくりと村づくり
ここ10年江刺のまちづくりに関わってきた。まだまだ思い通りに進んではいないが、この間実践を通じて感じたこと
がある。地方小都市は周辺農村部も元気にならないと、まちも元気にならないという思いである。
昭和30年代私は幼少期であったが、農村部の人たちで賑わう「まち」の様子を覚えている。当時は農村部も人口が
多く、自家用車を持つ人が少ないなど交通条件もかなり違うので、簡単に比較することは難しいのかも知れない。で
も、農村部の人たちが農産物を「まち」で売り、必要な物を買って「まち」から帰る。そんな単純なことがまちを活き活き
させていたように思う。
それがいつの間にか「まち」は「まち」、農村部は農村部というように見えない壁ができあがり、両者間の活き活きし
た繋がりが消えてしまった。その結果時には対立的にもなり、まちづくりは「まち」の人たちだけで考えるという風潮が
蔓延し、逆に農村部の問題を「まち」の人たちが考えることもない。
これだけが「まち」衰退の原因でないのは事実だが、「まち」が農村部との繋がりを切ってしまったのは衰退を導く
大きな要因になったのではないかと思う。やはり地方の小さな「まち」は、「まち」部と農村部で一つなのだと言う思
いが、頭から離れないでいた。
そんな折り、平成20年から農村部の地域づくりに参加する機会を得て、また違った角度から江刺のまちづくりを考え
るきっかけとなっている。
私は約700戸ほどの農村部に住んでいるが、ある都市の小学校入学者が10名を切ったというニュースに驚いてい
た。あと10数年すれば限界集落になるという不安から何かできないかと考えていた。また同じ頃、地域のある農業組
織が40年間放棄されていた「ため池」を復活させる話が持ち上がり、その事業への参加を要請されたこともあり、農村
部の活性化に取り組むことになったのである。
農村部は少子高齢化、農業収入の不安定さ、後継者問題、転作、耕作放棄地など農村景観の悪化など様々な問題
が山積している。地域の活性化を進めるには、「ため池」復活を足がかりにして、これらの問題とどう向き合っていくのか
、農民自身が考える必要があった。あと10年すると農村の人口は更に減少する。農業技術も世代が変わる毎に死んで
いく。1年に1作しかできない米作り技術は、専業が当たり前だった時代に比べると各段に落ちるだろう。サラリーマンが
いいと農業をやめる人も出てくるだろう。だからこそ、今の30代、40代の若手に地域の将来をこれまでと違った目で考
えてもらいたかった。
着手前のため池の様子
まず最初に取り組んだのはジャングル化した「ため池」周辺の伐採、土砂の浚渫、水門の修理である。地域の人総出
で作業を実施し、一体感と達成感を共有させた。次ぎに ワークショップを行で地域の宝を活用してできる取り組みを考
えてもらい、将来どのような地域にしたいかを話し合った。様々な夢が出されたが、今後時間を掛けて着実に実施して
行くことになる。
伐採作業
焼却作業
農民自身が農村の将来を語る当たり前のことが、今まで無かったような気がしている。これまで行政や農業関係組織
が行ってきた計画は農業計画、農地計画であって、農村計画では無かった。耕地整理をして機械化に対応した農地を
造ること、指導した作目で団地化しサックモツを作り売り上げることが農家収入を上げさせ、農民を幸せに導くのだという
論理である。それが全て悪いとは言わないが、樹木1本でもそこで暮らす人の思いがある、底には神が宿っていることだ
ってある。大義名分を旗印に、誰に問うわけでもなくいとも簡単に樹木を伐採することが農村計画だとは思わない。
そこで暮らす人の思いをどれだけくみ上げ、地域の将来を農業面だけでなく全てに渡って考えてきた計画は残念ながら
無かったと言える。
浚渫土流出防止の柵造り作業
浚渫作業
水を溜め始めた状態
農村は職住同居である。田んぼや川、川や水路は農業という職業の職場であると同時に子ども達の遊び場であり、そ
こで暮らす人の暮らしの場でもあるように多面性を持っている。そこで生まれ、遊び、学び、勤め、やがて結婚し、子どもを
育てる。これが普通に繰り返し行われていく農村社会を創っていきたい。
規模拡大だけが農業の生きる道ではなく、規模が小さくてもやり方次第で旨くやっていける農業だってあるだろう。そう
いう思いを形にし、実践していくのが農民自身である。
先は長いが、自分たちの地域は自分たちで創っていくことが大切なのである。
これが農村の活性化に結びつき、やがては「まち」の活性化に繋がっていくことだと思っている。
ワークショップの様子
(これは「建築士いわて」2009 Vol.21に載せた文を加筆修正したものです。)
![]()